園部茂のヒューマンストーリー

目次

画家 園部茂

園部茂氏との出会い

園部氏との出会いはもう15年ほど前になるが、然々でカルチャー教室を始める第1号としてお声をかけたのがきっかけだった。

私のそれまでのサラリーマン人生の中では、画家、作家などという芸術家との触れ合いは全くなく、園部氏との出会いがとても新鮮で、知らない世界の扉を開けることになり、私の人生やライフスタイルにも深みを増すことができた、恩人の一人である。

ここでは、画家園部茂のひとりの人間としての人生を語ってもらう。

インタビュー

幼少期の頃はどんな子供でしたか?

絵との関わりは?

内気で、おとなしい、女の子とばかり遊ぶような子供でした。

小学2年の時に、「火の用心」のポスターを描いたものが賞を取り、全校朝礼で表彰され、
表彰状と木の箱に入ったクレヨンを貰ったことを今でも覚えているので、そこが絵の入り口だったと思います。

 

その後、小学生時代は絵が上手い子だと先生から見られていて、展覧会などに応募させられていました。

親兄弟は絵や芸術とは無縁だったので、茂はなんでこうなったのかと、今でも言われますね。

「天は二物を与えず」で、元気がなかった子供だけど絵の才をくれたのかもしれません。

若い頃も友達と遊ぶというよりは、ひとりで絵を描いたり工作をしたりが好きでした。

那珂湊に生まれたこともあり、周りに絵を描く場所に恵まれ、昔の絵を見ると今よりもうまかったかもしれません。

また家が貧乏で、子沢山だったことの影響もありますね。

勤め人時代

会社員時代のことを教えていただけますか?
父親は日立に勤め器用な職人でした。

私も父の勧めで日立に入り、勤めた時期は夢中で頑張り、
そこそこの評価を得られ、

頑張り次第でどんどん上がれました。

 

運良く社内の全国からの選抜試験に合格して、寮に入り、優秀な人材と触れ合うことで、ちょうどタイミングがいい時に頑張れた気がします。

だんだん運が向いていった気がしますが、上がっていくと管理職になり、人を管理する仕事が自分の性格からすると辛く、だんだん仕事がつまらなくなっていきました

絵との関わりはどんなタイミングでしたか?
また、園部さんの人生のターニングポイントは?
すっかり絵から遠ざかっていた生活でしたが
30代後半になり、また絵を始めたのですが、蘇るまでには結構時間がかかりました。

展覧会などもかたっぱしから見て回り、
その中で、「ノン・ブラック」という美術集団の展覧会に行った時に声をかけられたのがきっかけになり、本格的に油彩画を描くようになりました。

ノン・ブラックとの出会いが、一つのターニングポイントでした。
活動して、色々な人との出会いで大きく人生が変わりました

ノン・ブラックでの創作活動

ノン・ブラックでの活動は別ページにまとまり次第リンク貼らせていただきます。

 

茨城朝日新聞の記者としての仕事もされていましたね?
写真を撮り文章を書くという、園部さんにとってはまさに天職だったのでは?

私にぴったりの仕事!面白い仕事でしたね。
それが、今ではブログに繋がっているのでしょうか。

 

ブログ「日向の薫り」はこちらから

 

なるほど実に魅力のある、素晴らしいブログですね。

さて、園部さんの人生の挫折体験を教えていただけますか?

自分は技術者として成り上がって行ったのですが、上に上がるにつれて管理者としてチームを率いるようになり、人間関係で幾度も辛い思いをしました。

さらに⒌0代には関連会社に移った事も重なり、退路を絶って55歳で早期退職を決断しました。

なかなか安定を捨てられないものですが、「自分の好き」を選べたのは?

幸い家の建て替えも終わったし、子供たちも育っていた、そして一番は家内の賛成で思いきれました。
恵まれた環境だったと思います。

もちろん今ではあの時の決断がベストだったと思っています。

将来こんな作品を描いてみたいというものがあったら教えてください。

ノン・ブラックでは油彩画大作を描き続けていますが、最後は今教室で教えているような水彩画に戻る気がします。

 

なるほど、いろいろなことも突き詰めていくと原点に戻るようなイメージでしょうか。
また、これからもいろいろなことをお聞かせください。
どうもありがとうございました。

ペン淡彩画教室のご案内はこちら